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遠ざかる(懲りずにエッセイ風)

年始の挨拶とともに、とあるライブへのお誘いをいただいた。誘ってくれた当人のお目当てと僕のお目当ては異なっているようだけれど、なかなか好カードのような気がした。数年前の記憶をたぐる。うん、彼のセンスは信用できるはずだ。大丈夫。彼とは誕生日が同じだし。関係ないけど。よし、行こう。二言三言付け加えて、返事を送る。自分の目当てのバンドは全然知らないから、予習しとかなきゃいけないな…明日休みだし、音源探してみるかな。ん〜音源?あ〜そんな言葉あったっけ。久しぶりに使った気がする。

気がつくと、ずいぶんと音楽から遠ざかってしまった。今、僕と音楽との接点は、職場で流れている FM 802 と、そこへ行くとき、そこから帰るときにポケットの iPod がささやかに提供してくれる、30 分あまりの時間くらいなもので、どちらもほとんど耳に入っていない。だからどうってこともないのだけれど、彼のライブへのお誘いが、ほんの数年前の記憶を引っ張り出した。ふ〜ん、こうなったか、おれ。ふ〜ん。

どこにでもいる末端のプレイヤーだったころ、FM なんてものは僕の情報源ではありえなかったし、携帯型音楽プレイヤーは CD が聴けるものでなくてはならなかった。FM には僕の好きなジャンルの音楽はよほどのことがなければかからない。CD プレイヤーを持ち歩いていたのは、買った CD を帰り道でうきうきしながら聴かなくては気が済まなかったからだ。どちらかというとメロディよりもテクニカルな部分に注目することが多かったので、音楽を聴くときはしいんとした環境をつくるようにして、その上で大音量のヘッドホンで聴いたりしていた。周りから見たらさぞかし不思議な姿だったんだろう。今はパソコンのディスプレイをにらみながら、ムーディのごとく右から左へ受け流してしまう感じだ。

ギターというものが弦を 6 本貼った楽器、という認識でしかなかったころの僕にとって、音源という言葉は、それはそれは新鮮だった。詳しいことは知らないけれど、僕らが使うところの「音源」という言葉は、音楽を収録していて、それを再生する機械さえあれば聴くことができるものを全部ひっくるめて呼ぶためのものだと思っている。そこでは具体的に媒体が何か、という点に関しては譲歩される。そう考えればたいしたことはないけれど、高校生になったばかりの世間知らずを自分に酔わせるくらいのちからはあったような気がする。音楽やってます僕、みたいな感じで。CD じゃなきゃ困るくせに、あえて CD とはいわない。少なくとも大学を出るまでの間は(正確にいうともう少しあるけど)、その言葉は僕の周りで日常的にやりとりされていた。でも、今はそうじゃない。なんなんだそのアバウトな言い方。CD とか mp3 とか、要求仕様確定させろよ。どういう形でほしいのかわかんねーよこのタコが。こんな感じか。

音はとても身近にある。それはきっと、僕の聴覚がその機能を失うまでそうなんだと思っている。でも、音だけが音楽じゃあない。耳をふさいだって、目で音楽を聴くことだってできると思う。彩りの良いオブジェクトが SE と同期して動くのを見たことがある。美しかった。そのとき耳を塞ぐことはしなかったけれど、聴覚を使わなくても音楽を楽しむことができただろうと思う。もっと極端にいえば、同じペースで歩けばそれはリズムだし、歩くことができなくても、何かしら反復していれば、そこにリズムという概念がうまれる。文字通り、心臓がとまるその瞬間まで、音楽はすぐそばにある。だから音楽はすばらしい。どれほど、どんな形でそれに関わるかは、自分で決めればいいんだ。

だから、音楽からはなれたからってどういうことはないと僕は思っている。望めばすぐに浸ることができるのだし、この国には、その中でも特に磨き上げられたものをすぐに手に入れられる環境がある。それより怖いのは、自分の中の、感性とか感受性とかいわれるものを好きではなくなってしまうことだと思うけれど、少なくとも今はそんな傾向はないし、そもそもそれはまた別の話だ。

けれど、音楽から遠ざかったことに、気づいただけマシなのかもしれない。たまに気づいて、また忘れての繰り返しで、そのうちそんなことも考えなくなってしまうかもしれないくらい、それが普通になってしまうのかもしれない。なあ、今のおれを笑うかい?昔のおれ。ひたむきに、イコライザの一目盛りにさえ神経尖らせてたおまえのことは今でも大好きだ。

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